第2話 公共の場での個人宛メッセージ
僕は着陸の衝撃で目を覚ました。どうやら、もうシンガポールに着いたようだ。
上空からの街の景色を見損ねたからだろうか、まだシンガポールに来たという実感が全然湧かない。
那覇からシンガポールまで一度も目が覚めなかった。おかげで眠気は吹っ飛び、身体も今すぐにでも100メートル走れるくらい活力に満ちあふれている。
冒険の準備はできている。
飛行機から降りたらまずは入国審査だ。
入国審査官が無表情で黙々と仕事をこなしている。彼らの表情にはあまり変化が見られない。それはやる気がないからなのか、入国審査官のオレの一言で入国拒否できるんだぞ、という威厳を示すためのものなのかはわからない。
いずれにせよ、僕のような好奇心旺盛で変化を求めるような人には向いていない仕事だと思う。
無表情の審査官がハンコを押してくれたパスポート受け取ったあと、僕は預けたバックパックを受け取ろうと、那覇からの手荷物用のレーンを探した。
モニターにはしっかりNAHAと書かれている。やはり僕はシンガポールに来たようだ。少しずつ実感が湧いてきた。
しばらくすると、誰かかが流すよと言って流しそうめんイベントが始まったかのように、預け荷物たちがベルトコンベアから流れてきた。そして、自分のバッグを見つけた人が、待ってました、という表情でバッグをベルトコンベアから下ろして去っていく。
僕も自分のバッグを見つると、一歩前に出てバッグを持ち上げた。
この旅で、地元の人に混ぜてもらってフットサルやサッカーをするために、僕はサッカーシューズとフットサルシューズの2足と、サッカーウェア一式(上下、ソックス)を2組持ってきていた。
その他の着替えはそれほど多くなかったが、サッカーの道具で荷物がだいぶ重くなっていた。
今回の僕の手荷物は大きなバックパックを背中にひとつ、普通サイズのリュックを体の前にひとつだが、キャリーバッグを引きずって歩くよりかははるかに移動しやすいだろう。
行動派の旅人は、キャリーバッグではなくバックパックなのだ。僕はバックパッカーとなって到着ロビーへと歩を進めた。
バックパッカーといえば、今までは安宿のドミトリーに泊まるというイメージだったかもしれないが、最近の風潮は違う。
今はカウチサーフィンという、宿泊先を探している旅人と無料で宿泊先を旅人に提供してもいい、人と出会いたいと思っている人たちを繋げるアプリがある。
僕は今回、初めてカウチサーフィンに挑戦してみることにした。
ロビーに出て、まずは、僕を受け入れてくれるホストに連絡して、彼のアパートまでの道順を教えてもらった。
アパートの最寄り駅まで彼が迎えに来てくれることとなった。
メッセージからも彼のホスピタリティが伝わってくる。それは、不安になっている僕を多少落ち着かせてくれた。
問題は、沖縄出身で電車になれていない僕が、彼の待つ駅までたどり着けるかどうかである。
ツーリストパスなる、支払い額によって1日から3日まで電車と路線バスが乗り放題になるものを僕は購入して、カードをかざすだけで簡単に改札を抜けることができた。何という文明の利器なんだ、プリペイドカードのようにわずらわしいチャージもなく、これでまたひとつ僕は不安から解放されたのであった。
さっき電車に乗って〇〇駅を通過した、というメッセージを送ると彼はすぐに返信してきた。どうやら今のところ、僕の行動は正解みたいだ。迷子になっても彼がすぐに助けてくれそうだ。どれほど心強いことか。
それから30分ほどすると、彼の待つ駅に到着した。
僕が改札を出てすぐに彼はやってきた。
彼は眼鏡をかけてポケモンのサトシのような帽子をかぶり、半袖半ズボンにぞうりというラフなスタイルだ。
彼の少年のような見た目も相まって、僕にはもう彼がサトシにしか見えない。
僕はサトシと握手をして軽く自己紹介した。彼も自己紹介すると、彼は30代半ばであることが判明した。なるほど、10歳だったサトシも大人になったか。これが時の流れというもの。
サトシは僕をつれて近くのアパートへ歩いた。
アパートは団地のように10階建てのビルがいくつも並んでいた。僕たちは中庭を通り抜けてエレベーターに乗ると、中にこんな張り紙がされていた。
エレベーター内でつばを吐いたり、おしっこをしないでください。
いや、当たり前のことでしょ。
え、これどういうこと、と僕はサトシに訪ねてみた。彼によると、このアパートの住人で少し頭のおかしなおじさんがいて、彼がエレベーター内でする行為がこの張り紙に書いてある、とのことだ。
つまり、この張り紙は彼ひとりに向けられたプライベートメッセージなのだ。
張り紙が破られているところを見ると、おじさんの反抗心むき出しで、今後もこれらの行為は続くと僕はみている。
僕は、自分ひとりの時にそのおじさんとはち合わせないように注意してエレベーターに乗ろうと決意した。
エレベーター内でおしっこするくらいだから、周りに人がいても気にしないだろう。目の前でおっさんの放尿を見るなんて、たまったものではない。いや、おっさんの膀胱はたまっているのだが。
警戒心を限界レベルまで引き上げて、僕はサトシの部屋へ入った。
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