第91話 行きつけのバー
僕のお気に入りのミュージックバーには、リサもユナもDJガールもいなかった。その代わり、前回ノリノリでキレのあるダンスを披露してくれたセキュリティのおっちゃんが、僕たちを笑顔で迎えてくれた。
僕はいまだに、このバーにセキュリティの必要性を感じないが、彼の場合はセキュリティの意味合いよりも客との和みといった意味合いが強いのかもしれない。
酔っ払いが暴れだしても、160センチちょいの僕の背丈よりわずかに低いおっちゃんには勝ち目はなさそうだ。
ムキムキに鍛えあげられているかというとそうでもなく、そこらへんにいそうな40代くらいの中肉中背のおっちゃんである。もしかしたら、バリに伝わる伝説の格闘技とかあって、それを修得しているのかもしれない。
そんなことを思い浮かべながら、おっちゃんが差し出してきた右手を握って握手すると、試しに背負投げとかしてみたくなったがやめておいた。
もちろん僕の思考など知らないおっちゃんは、左手で僕の肩を叩き、どうぞどうぞと店内を差し、また持ち場に戻った。
4人はカウンターに座った。僕は右端に座り、隣にはケビン、その隣にディーバ、リッキーと並んだ。テーブルに用意されていたメニューを見て、それぞれがドリンクを頼んだ。
ハッピーアワーで8種類のカクテルが安くなっていて、その中に僕の好きなブラジルのカクテル『カイピリーニャ』も含まれていたので迷わずそれにした。
他の3人はビンタンビールを頼んだ。
とりあえず全員で乾杯だ。
ディーバは相変わらずリッキーとケビンに媚を売っている。ケビンは適当にあしらっているようだが、彼女がケビンにデレデレしているとリッキーが嫉妬心を持ってそれをみつめている。
すぐ隣でこのやり取りが繰り返されていたので、ごたごたに巻き込まれるのもご免だし、何よりも僕は見飽きていたので、ひとりでカイピリーニャを味わっていた。
ブラジル各地の友人たちは今頃どうしているだろうか、元気にしてるかな、などと思いを馳せた。そしてまた一口カイピリーニャを口に含んだ。ライムの酸っぱさと砂糖の甘さが口全体に広がり、そのあとをすぐにカシャッサの強烈なアルコールの味が追いかけてきた。そして、のどから胃まで特急電車のような速さで駆け抜けていく。
このバリの旅も特急電車に乗って一瞬で駆け抜けてきたような、そんな気がした。
僕は2杯目のカイピリーニャを飲み終えると、残り少ないバリの滞在期間を目一杯楽しもうと思うと、居ても立ってもいられなくなった。
3人に「僕は次に行くよ」と告げると、3人も店を出ると言い出した。
僕は自分のドリンクだけ先に支払いを済ませるつもりだったが、結局、みんなの分を同時に会計することとなった。僕はレシートを貰い、1人づつにいくら分払うのかを指示した。
しかし、ディーバのときだけスムーズにはことが進まない。
「ねぇ、ケビン、あいつ私に払えって言うんだけど」
僕・ケビン「・・・」
ケビンは黙って彼女の分も払った。
ここまで来ると、彼女がこの先もお金を払う意志がないことをはっきりと読み取れた。まあ、僕以外の誰かが払うのなら、僕にとってはどうでもいいことだ。
セキュリティのおっちゃんに声をかけて店を出ると、僕は気にせずに隣のナイトクラブへと歩を進めた。
ケビンはこの冷戦のような空気に耐えきれなくなったのか、「ディーバを宿に送って後から戻ってくる」と言い残しディーバを連れて宿へ引き返した。
リッキーは自分こそが、ディーバ争奪戦で大きくリードしていたと思っていただろう。傍から見てもそれは明らかだった。
しかし、形式的には思わぬ形でケビンが横取りしたような形になってしまった。
リッキーにはケビンの、これ以上みんなに迷惑をかけないようにディーバを留守番させる、という意図が理解できてないように思われた。
「あのふたり、ヤるのかな」とリッキーは心配そうにしている。
「もしかしたらね」どっちでもいいと思っていた僕はそうこたえておいた。
それでもリッキーはナイトクラブに行きたい欲のほうが強いらしく、結局ふたりでナイトクラブへ入った。
先にカウンターでふたりでビールを飲んでいたが、30分、1時間と待ったがケビンは戻ってこなかった。
僕の予想では、二人であんなこんなことをして楽しんでいるかというとそうではなく、ケビンがディーバを説得してクラブに行こうとするところを引き止めている、そんなところだろう。
何れにしても、僕は気にせずビールを飲み続けた。リッキーのほうも気にならなくなったのか、いつのまにか中年のダンディーな欧米系のおっちゃんとビリヤードで熱戦を繰り広げていた。
僕はクーラーが効かない灼熱のダンスフロアを覗いたが、あまりの熱気にその中に入る気にはなれず、リッキーとおっちゃんの勝負を見つめることにした。
リッキーもなかなかの腕前でいくつもボールを穴に落としていったが、おっちゃんのほうが一枚上手だったようだ。勝負はおっちゃんの勝利に終わり、二人が握手を交わすとおっちゃんは店の奥へ消えていった。
なんやかんやで僕はディーバの影響を受けていたのかもしれない。アグン山を登頂した後は体力的に動けなくなった。今回はどうやら精神的にどっと疲れが出て動く気になれない。
僕はソファに腰を下ろした。リッキーは僕にビールを持ってきてくれて隣に座った。
二人の間にはしばらく沈黙が続いた。一度どこかで聞いたことがあるような流行りの曲が流れ、周りの話し声が響いているのだろう。確かに存在するはずなのに感じることができない、まるで空気のように、何も聞こえないし感じなかった。この瞬間、空気のような存在だったのは僕のほうなのかもしれない。
「ここ座っていいかしら」
沈黙を破ったのはリッキーではなく、3人組の女の子たちだった。たぶん女子大生だろう、20代前半の生き生きとエネルギーを解き放っている。
僕は空気ではなかった。一応彼女たちに見えているらしい。
「もちろん」僕はこたえた。
彼女たちは僕とリッキーの向かいのソファに座り、3人で何やら話し始めた。
ここでリッキーにスイッチが入り、いつもの調子で女の子たちの輪に入り話し始めた。その中に僕も「おまけ」として入り、しばらく会話に混ざった。
閉店間際まで話し、僕たちはナイトクラブを出た。
リッキーはかなり酔っていたので、千鳥足で帰路へついた。
「やっぱり、お前は最高だ。いつも一緒にいてくれる」リッキーが不意につぶやいた。
僕は黙ってうなずいた。
なんやかんや言って、いつも共に行動している。欲に正直すぎるが嫌いにはなれない。感情や行動がわかりやすいから、僕も彼と一緒にいて楽だ。僕たちは少しづつ信頼関係を築けていたのだろう。
結局、いつも通り、今夜も僕はリッキーと部屋をシェアすることになった。
リッキーがベッドに横になって1分もしないうちに豪快ないびきが鳴り響いた。
ゆうやは今頃、快適な環境で寝ているんだろうなと思い、僕は静かに目を閉じた。
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